聖書のみことば
2023年10月
  10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月15日主日礼拝音声

 主の名による癒し
2023年10月第3主日礼拝 10月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第3章1〜10節

<1節>ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。<2節>すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。<3節>彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。<4節>ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。<5節>その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、<6節>ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」<7節>そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、<8節>躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。<9節>民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。<10節>彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 ただ今、使徒言行録3章1節から10節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」とあります。
 当時は、このような光景は毎日見られたごくありふれた光景だったものと思われます。「午後三時」という時間はエルサレム神殿の祈りの時間で、ペトロとヨハネも礼拝のために来ており、その同じ時間帯に、足の不自由な男の人も神殿に運ばれて来ています。おそらく、そのためには、この人の友人たちが協力してくれたものと思われます。友人たちは、この人に対して最も良いと思うことをしてあげているつもりだったでしょう。こうなるずっと以前、友人たちや身内の人々は、この人を医者に診せたことがあっただろうと思いますが、当時の医学ではこの人の麻痺を治せませんでした。神殿の祭司たちの許にも連れて行って相談したかもしれません。しかし祭司たちにも、この人の麻痺を治すことはできません。この人は周囲の人々の世話を受けてこの場所に連れて来られ、置かれるという日々を過ごしています。今ではもう、治療よりも、この人を経済的にどう支えるかという事の方が中心的な問題になっていました。

 このようなことは、今日でもよく見られることではないでしょうか。元々の問題ではなく、そこから派生してくる問題の方に人々の思いが向けられます。そして、本人の元々の問題は解決されないまま放置されるのです。問題は解決されないのですから、本人にとって辛い事情は残っています。派生する問題の対処がなされるだけでは、決して困難は解決しません。金銭的な援助によって、難しい事情の下にある人の困難が幾分か和らげられる程度です。
 そしてそういうところでは、結局のところ、問題が最終的に解決されることについては、誰も考えなくなります。そして、関わりを持つ人々がそれぞれの役割を果たしておればそれで良いという具合になってしまいがちです。今日の記事で言えば、友人たちはこの人を毎日「美しい門」のところまで運びます。そして神殿に入ってゆく人たちは、この不幸な人に何がしかのお金を恵んでやるという役目を果たします。この人自身は、そのように人々の善意を受けて生きる不幸な人という役割を担うようになります。
 そしてそういう中で、結局は誰もが孤立していってしまうようになるのです。ボランティアとして手伝う人、金銭を援助する人、そして不自由さの中に置かれ生きる人、そのそれぞれがばらばらになってゆきます。見たところでは、それで回っているよう思われますが、しかし実際には問題は解決しないまま、それが固定化していくことになるのです。
 これは、昔も今も変わることのない問題です。そして今日の記事は、そんな状況に対して一つの答えを与えるものです。どういう答えなのでしょうか。ここに語られていることに耳を澄ませたいのです。

 まず、神殿の門のところに置かれていた人のことから考えたいと思います。この人は生まれながらに足が不自由でした。そしてこの先の4章22節によれば、この時この人は40歳をこえていました。従ってこの人は、これまでの長い人生の中で、自分がどうにか生きてゆける道は今の生活以外にないものと心得ています。この日もまた、門のところに置かれる中で、なるべく門を通ってゆく人たちと目を合わせないように用心しながら、ただ手だけを差し出し、その手に幾らかのお金を握らせてくれる人が現れた場合には、その人の足元に向かって「ありがとうございます」とお礼を言う、そういう生活を繰り返しています。
 この人の前を通り過ぎてゆく人々もまた、この人と大差ありません。お金を渡す人もそうでない人もいますが、お金を渡す人も特にこの人のことが気になっているのではありません。たまたま美しい門の傍にこの人が座っているからであって、仮にこの人ではなくて別の人が座っていたとしても、人々は同じように行動するに違いありません。前を通り過ぎる人は、その人の手にキャッシュを握らせるか、あるいはそこに置かれている箱の中に幾らかの志を入れて遠さかってゆきます。人々はこの人自身のことが気になるのではなくて、ただそういう不遇な人にお金を恵むということをやっているだけです。お互いの間に金銭の動きはあるのですが、そこに人と人との人格的な関係、交わりは築かれていきません。

 ところがこの日、この門のところで、いつもとは違ったことが起こりました。この人を巡って起こっていた決まりきった人間の動きが、ペトロとヨハネによって破られます。
 ペトロはまず、いつものようにお金を恵んでもらおうと手だけを差し出すこの人に向かって、自分とヨハネに注意を向けるようにと促します。3節4節に「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」とあります。
 この人は、「ペトロとヨハネが境内に入ってゆこうとするのを見た」と言われていますが、この3節の時点で、この人は2人のどこを見ていたでしょうか。それはおそらく、自分の前を通っていく人たちの足許です。ですから、そのままでは人と人との交わりは生まれません。ところがペトロは、この人の前に立ち止まり、手だけを差し出すこの人の視線を上向かせ、目が合うように促します。そしてまず「わたしたちを見なさい」と言いました。ここで互いに視線を交わすことで、この人とペトロたちの間に、最初の人格的な触れ合いが生じます。しかし勿論、目と目が合ったからと言って、最初から良好な人間関係が生まれるとは限りません。交わりを願って語りかけられた呼びかけが誤解されて受け取られることは、いくらでもあり得ることです。ここでもそうです。ペトロの呼びかけは、 呼びかけられた人に誤った期待を呼び起こしました。「見知らぬ人たちが目を上げろと言うからには、いつもとは違って、もっと多額の施しをもらえるかも知れない」と、声をかけられた人は期待しました。5節に、「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」とある通りです。ペトロの語りかけは、この時点では誤解されて受け取られています。

 しかし、たとえ最初に誤解されたとしても、確かに人と人がきちんと視線を交わし合うところでは、そこに語らいが生まれ、互いに見詰め合う者同士の間に真実の触れ合いが生まれてゆきます。ペトロとこの人との間にも、互いに視線を交わしている状態で、次第に新しい状態が生まれてきます。目と目による触れ合いに続けて第2のことが起こるのです。それは言葉による触れ合いです。そしてそれによって、先にこの人が抱いた間違った期待が正されてゆきます。6節に「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」とあります。
 このペトロの言葉に注意を向けたいのです。彼はまず、「わたしには金や銀はない」と言って、目の前にいる人の期待通りにはしてあげられないことを正直に告げています。しかし、それで終わりにするのではありません。すぐに続けて言います。「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。ペトロとヨハネは、自分たちに無い物はあげられないけれど、「持っているものをあげよう」と言います。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩く」ということを、「あなたにあげよう」と言うのです。
 「ナザレの人イエス・キリストの名によって」というのは、当時の物の考え方からすれば、「主イエス・キリストに備わっている癒しの力によって」ということです。「ナザレの人イエス・キリストの名」、そこに癒しの力があるというのは、どういうことでしょうか。「キリストの名」というのは、決して呪文のような言葉ではありません。アラビアンナイトに出てくるアリババと盗賊たちの物語で、「開けゴマ」と言さえすれば宝を隠してある洞穴の扉が開くような意味で「ナザレの人イエス・キリストの名」が語られているのではありません。ペトロもヨハネも、「よみがえりの主イエスが共に生きてくださっている」という信仰生活の中を生きています。復活の主が今も生きておられ、御言をもって神の力による慰め、支え、癒し、力を与えて下さる生活の中で、彼ら自身が日々支えられ、勇気を与えられて、主イエスが歩まれた歩みに似た人生を、今ここで生きるようにされています。様々な不自由や限界の下に置かれても、尚そこで彼らを支え生かして下さる主イエスとの交わりを与えられて、生きるようにされています。

 主イエスの癒しの力とは何でしょうか。たとえば、体調が悪くなっても主イエスの名を十回唱えたら良くなるということでしょうか。そうではないと思います。主イエスの名を十回唱えろとか、主の祈りを日に十回祈るというようなことは、分かり易くはありますが、それで病気が治る訳ではないでしょう。
 しかし、よみがえりの主が共に歩んでくださる生活を経験している人であれば同意される方も多いと思いますが、実際に病気の苦しみや思うようにならない不自由さを経験する時には、その中で、「わたしのために十字架に掛かり、よみがえっておられる主イエス・キリストがすぐそばにいてくださって、癒しの力を発揮してくださり、病んでいるわたしを支えてくださる」ということがあるのです。
 私自身のことを語るのは恐縮ですが、風邪をこじらせて高い熱が出た時、十字架の主イエスがすぐ傍にいて下さり、一緒に苦しんで下さっているという思いになったことがあります。一緒に苦しむだけでなく、よみがえりの命に生きておられる方として、どんなに具合が悪くなっても、「わたしはあなたと共にいる。あなたはわたしによって生きるのだ」と主イエスから言葉をかけられたと感じた経験をしました。
 またこれは、私の神学校での指導教授の体験談ですが、心筋梗塞の深刻な発作で心臓につながる4本の太い血管のうち3本の血が流れなくなる状況が起こった時に、結局その教授は、そこで命がつながったのですが、後からその夜のことを思い出して、自分が本当に弱った時、それまでは主イエスは自分の傍におられると思っていたけれど、そうではなくて、自分の体と横たわっているベッドの間に主イエスが居てくださって、丁度シーツのように自分が支えられていることを感じたと話しておられました。
 病気や死の力に立ち向かって下さり、私たちが生きるように先へ先へと持ち運んでくださる主イエスの力は、確かにあると思います。ペトロは、そういう主イエスの力が、「あなたの上にも働いて下さるように」と、目の前の体の不自由な人に語りかけたのでした。

 視線による触れ合いと言葉による触れ合いがこのように起こった後で、続けて第3のことも起こっています。7節8節前半にかけて、「そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」とあります。この第3の、人と人との直の触れ合いによって、この癒しの出来事は頂点に達します。ペトロはこのような触れ合いを通して、この人が本来抱えていた問題を援助するような働きをしています。この人が交わりから分断され、辛い状況を生きるという役割を演じるように強いられ、その中で孤独に暮らしていたところから、この人全体を受け止め、この人の抱えていた問題自体である病が癒され、健康が回復することへと助け導くのです。「生まれながら足の不自由な人の癒し」の記事は、このように語られています。この人は最後には健康が与えられ、躍り上がって立つようにされています。

 これは一つの頂点となる出来事ですが、しかし、聖書の記事はそれで終わってはいません。これはまだ事柄の中間点でしかありません。その後に8節の後半の言葉が続きます。「そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」。癒されたこの人は、命を支え持ち運んでくださる神を礼拝する群れに自分から加わってゆきます。
 せっかく健康が回復され、いろいろなことができるようになっても、自分の命と人生を結局は自分の欲求を満たすことだけに用いようとして、周りの人たちとの関わりに生きようとしない人も大勢います。自分のことを第一に考える時には、結局周りのことを不審に感じて交わりに加わらず、自分一人だけで孤独に過ごしてしまう、あるいは気の合う仲間とだけつき合って、自分が気に入らない人は自分の心の外に締め出しても平気な人たちもいます。けれども人の心は移り気ですから、仲間を気に入っている間は依存して生きてしまいますが、仲間を気に入らなくなれば孤独にならざるを得ないのです。
 しかし、ここでペトロとヨハネを通して癒しを経験したこの人は、そうならず、神殿の境内に入り、神を賛美する者となってゆきました。これは、ペトロとヨハネがこの人と人格的な関わりを持とうとし、互いに「共に生きる」人間として触れ合ったことの直接の結果です。
 ペトロとヨハネがこの人を避けようとしないで、この人の置かれた不自由な事情を正面から受け止め、共にあろうとした直接の結果として、この人は交わりの中を生きる者とされてゆきました。「歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」とあるように、この人は、今やとても幸せになり、朗らかな喜びにあふれます。この日のお昼には予想も期待もしていなかったような大きな贈り物が、この人に与えられたためです。
 この人は今では他の人と一緒に歩んでゆけます。自分も神に愛され覚えられている、神の民に属する一員だと思うことができるようにされています。神がペトロとヨハネを遣わして下さり、自分に出会って下さったという喜びで、この人は一杯になるのです。

 そしてまさに、これが「主イエスの御名による癒し」の出来事です。世の中では、体の健康が回復され社会的にも立場を得られて社会復帰を果たせることの大切さが語られますが、それだけでは、人は十分に生きられる訳ではないことが、ここに語られているように思います。困難や難しさに直面しながらも、なおそこに伴って下さる方がおられる。よみがえりの主が常に自分と共に歩んでくださる。その主に支えられ、感謝して生活することができる人こそ、生涯にわたって、真に健康に終わりまでを生きることができます。

 ペトロたちの行った癒しの業は、ただ体の癒しで終わったのではありませんでした。この話はまだ続いていきます。どうしてペトロとヨハネはこの人を癒すことができたのか、なぜこの癒しが可能だったのかという問いが、この後生じてくるのですが、そこで明らかになっていくのは、「主イエス・キリストの御名によって生きることこそが、この人を本当に健康にした」ということです。そういう意味で、この箇所でのペトロたちとこの人との人間的な交わりは、ここで終わるのではなく、主イエス・キリストによる救いを伝える伝道の働きへとつながってゆきます。
 私たちが日々生活する中で経験する小さな行いも、最後にはいつも、このように、癒しの力を持っておられる主イエス・キリストを見上げることへとつながってゆくものとされたいと願います。

 慎ましいキリスト者としての愛の業が、そのまま主イエス・キリストを証しする業に結びつくように、私たちが用いられ持ち運ばれることを、常に祈り求めたいと願います。お祈りを捧げましょう。
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